――二冊目は、ジョン・アーヴィングの『あの川のほとりで』。これを選ばれた理由は?

井上 主人公のお父さんがイタリアンのシェフで作中に料理がたくさん出てくるんですが、なにげなく差し込まれる細部がいちいち美味しそうなんですよ。マッシュルームのオムレツに白ワインを合わせるとか、ピザにはちみつをかけるとか、カラマリ(イカ)のフライに絞りたてのレモン汁を振るとかね。そういうちょっとしたディテールの妙が濃やかに伝わってくる。

――登場人物もたくさん出てくるにもかかわらず、ひとりひとりが魅力的に描かれているからしっかり心に残るという。

井上 そうそう。特に私は樵(きこり)のケッチャムという人物が大好きで……映画になったら絶対にラッセル・クロウに演じてもらいたいと思ってる(笑)。とにかく映像的でロマンティックな作品です。冒頭、男の子が溺れてみんなで助けようとする場面から始まるんだけど、その子の体が川一面に浮かんだ丸太の下に隠れて見えなくなっちゃうの。他にも、氷の上でダンスする場面とかもすごく美しいし。その一方で、作家としてハッとさせられる言葉もたくさん出てくる。例えば、「なんといっても、小説は全きもの、完全なものになりうるが、実生活の物語は決してそうならないのだから」とか、「様々な質問が聞かれもせず答えられもしないでいる」とかね。一文一文に含蓄があって考えさせられる。

――これは時系列を行きつ戻りつしながら、作家になった主人公が過去の出来事と折り合いをつけていく小説でもあるんですよね。いうなれば、人生という物語を熟成させていく過程というか。

井上 うまいこと言った!(笑)。確かに、思い返すことでこの主人公自身も成長していく。アーヴィングの物語や小説に対する思いが全部詰まった小説です。

ジョン・アーヴィング『あの川のほとりで 上・下』(小竹由美子=訳、新潮社)。山間にある小さな町で料理人の父親と共に暮らしていた息子が、不幸な思い違いで父の愛人を撲殺してしまったことから、長い長い逃避行が始まる。壮大なストーリーの中にアーヴィング自身の小説観・物語観のすべてを詰め込んだ、半自伝的小説。

――最後はジョン・ウィリアムズの『ストーナー』。60年代に出た小説ですが、2000年代になって急に注目を浴びた小説です。

井上 貧しい農家に生まれた男が、大学に行って文学と出会い、一教師として死んだ。たったそれだけの地味なお話(笑)。けれど、心の起伏がものすごく丁寧に描いてあるんです。その静かな筆致が素晴らしくて……。周りから見てなんてことない人生でも、その人自身から見たら当然、波乱万丈なわけですよね。それこそが人生の真実だということが、この小説を読むとわかる。重めの赤みたいに、じっくりちびちび味わいたい本ですね。

今回紹介してもらった三作に共通するのは、人生を濃やかに描きつつも、「何が幸せなのか」という判断を読者に委ねている点だ。その価値については次回<後編>で詳しく語られることになるのでお楽しみに。

ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』(東江一紀=訳、作品社)。1965年の刊行当時、本国アメリカではそれほど目立った評価を受けていなかったにもかかわらず、2000年代に入ってからフランスを皮切りに口コミで評判が広がり、世界中でベストセラーになった。日本では第一回日本翻訳大賞の読者賞を受賞したことでも話題に。
井上荒野
井上荒野 1961年東京生まれ。89年、「わたしのヌレエフ」でフェミナ賞を受賞してデビュー。2004年、『潤一』で島清恋愛文学賞受賞。08年、『切羽へ』で直木賞受賞。11年、『そこへ行くな』で中央公論文芸賞受賞。16年、『赤へ』で柴田錬三郎賞受賞。他、著作多数。近刊は、昭和歌謡の歌詞にインスパイアされたユニークな短篇集『あなたならどうする』(文藝春秋)。
インタビュー&文:倉本さおり
ライター、書評家。『週刊金曜日』書評委員、『小説トリッパー』クロスレビュー担当のほか、『週刊新潮』にて「ベストセラー街道をゆく!」、『FRaU』にて「ホンとの消費学入門」連載中。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)。

Photos:Daisuke Akita Interview&Text:Saori Kuramoto Edit:Yuka Okada

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