嗅覚の遺伝子はどうしてそんなに多い?

 1990年に始まったヒトゲノム計画は、国際的な協力体制のもと、2003年までにヒトの全遺伝情報を解読した。それによって、ヒトゲノムに含まれる遺伝子総数が約2万2000個と判明。また、これをきっかけにDNA解読技術が飛躍的に進歩し、さまざまな生き物の全遺伝情報が解読されている。そんな中、「嗅覚」関連遺伝子について、驚くべきことがわかってきたのである。

 においのもとになるのは、空気中を漂うさまざまな香り成分だ。この成分が、鼻の穴の中にある嗅神経表面のセンサー分子(嗅覚受容体)にくっつくと、嗅神経が脳へシグナルを発し、においが感知される。1991年に米国の研究者がセンサー分子の遺伝子を発見。彼らはラットでこの発見をしたのだが、ラットはなんと1000種類ものセンサー分子をもっていた。「ラットの遺伝子総数は約2万個。その5%を、においセンサー遺伝子が占めていたのです」東京大学で嗅覚の研究をする東原和成教授はこう話す。これは、ほかの感覚器と比べると桁外れに多い数字。哺乳類の場合、視覚センサーの遺伝子は3~4種類、聴覚は1種類しかもっていないのだ。

東原和成
東京大学大学院 農学生命科学研究科 教授
東原和成 1989年東京大学農学部農芸化学科卒業。米国へ留学し、化学分野で博士課程を修了。デューク大学医学部博士研究員などを経て2009年より現職。 「においは情報。例えば自分の体臭も、体調を伝える情報、つまり健康のバロメーターだと捉えれば、冷静に付き合えるでしょう。そして、においの世界はとても奥深いものです。さまざまな意味で、においに対して不寛容になるのは、もったいないことだと思います」

 さらに上をいく動物も見つかった。現在、知られている中でセンサー遺伝子数が最も多いのはアフリカゾウで、2000種に上る。 このセンサー遺伝子群は、もともと単一の祖先遺伝子から派生して増えたと考えられており、単一遺伝子に由来する遺伝子ファミリーとして、このアフリカゾウのケースが生物界で最大だという。

「においを発する成分は、世の中に数十万種類もあるといわれます。多様なにおいを嗅ぎ分けるには、センサーもまた、多くの種類が必要なのです」(東原教授)。なお、ヒトは約400種類。ネズミやゾウに比べると控えめだが、それでも遺伝子総数の2%程度に上るのだから、かなりの数といえよう。

 それというのも、生き物の体にとって、遺伝子を維持するのは、実はかなりコストがかかること。だから、エネルギーを節約するため、不要になった遺伝子は、進化の過程でどんどん消えていく。例えばクジラやイルカの祖先は陸生動物で、当時は多数のにおいセンサーをもっていたが、水中で暮らす現在の彼らのセンサーは、わずか10種類ほど。陸上で有用だったセンサーも水中では役に立たないため、退化したのである。

 その一方で、ヒトは400、ラットは1000、ゾウは2000と、遺伝子総数の数パーセントに及ぶ大量のセンサー遺伝子をもつ生き物もいる。生きていくのに必要だから、コストをかけて維持しているのだ。

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嗅覚受容体の数は、種によってこんなに違う。
におい成分をキャッチするのは、鼻の穴の奥、嗅神経の表面に存在するセンサー分子=「嗅覚受容体」だ。人間は約400種類の受 容体を持っており、それぞれが異なるにおい成分を感知する。受容体の種類が多い生き物ほど、においを細かく識別できるわけだ。進化をさかのぼると、水中生物が陸上に進出して両生類(カエルの仲間)になったとき、センサーの種類が増えたという。陸上で暮らすには、水中より多くのにおいを識別する必要があったと思われる。現在生きる動物の中で、センサーの種類が最も多いのはゾウで、約2000種類。ほかにもイヌ(800種)、ネズミ(1000種)など、哺乳類には鋭敏な嗅覚をもつ生き物が多い。ただし同じ哺乳類でも、イルカやクジラはセンサー数が激減している。海での暮らしに戻ったことで、嗅覚が退化したようだ。

 ここから導かれる結論は明白。体は嗅覚を“軽視”などしていない。むしろ、とても重要な機能と位置付けているのである。