とはいえ、日常的な実感としては「嗅覚は生きていくために必要」と言われても、正直ピンとこないかもしれない。嗅覚は実際、どのようにはたらいているのだろう?

「エサを見つける、天敵を感知する、交尾相手を見つける。生き物の生存の不可欠なこれらの活動は、すべて嗅覚と深くつながっています」と東原教授は話す。特に哺乳類は、その起源となった共通祖先の動物(ネズミに似た生き物)が「夜行性」だったようで、総じて嗅覚依存度が高い。「実験室のケージで飼っているマウスでも、嗅覚を失うとエサを見つけられなくなります」(東原教授)。

 私たち人間を含むサルの仲間は、のちに「昼行性」へと進化したため、ネズミの仲間よりは嗅覚依存度が低い(だからセンサー遺伝子の数もやや少ない)。それでも嗅覚はしっかり機能しており、例えば生まれて間もない赤ちゃんが母親の乳房を探り当てるときは、主に嗅覚を使っているという。

においのシグナルはダイレクトに感情に届く。

 視覚などほかの感覚と比べたとき、嗅覚にはふたつの特徴がある。
 ひとつは、情報が24時間絶え間なく入ってくること。「視覚なら、目を閉じれば遮断されますが、嗅覚は、呼吸をしている限り、寝ても覚めてもにおいが入ってきます」(東原教授)。もっとも、そのすべてが意識されるわけではない。むしろ私たちの体は、意識が及ばない無意識のレベルで、常ににおいを感じ続けているという。

 そしてもう一つ。嗅覚の情報を脳に伝える神経経路は、脳内で「情動」の中枢(扁桃体)に短距離でつながっている。そのためにおいの刺激は、感情や直感、生理的な反応などに結びつきやすい。一方の視覚は、一次視覚野などを経由して何段階もの神経を経て扁桃体につながっており、情動より「ここに◯◯がある」といった理性的な判別が先にはたらく。

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嗅覚は、神経経路が短い。だから、素早く心に響く。
好きな食べ物の「におい」と「写真」を比べてみよう。どちらも食欲をそそるが、においのほうが、よりガツンと響く気がしないだろうか。写真は、見ることでその食べ物のことを思い出し、それから「ああ、あれ、美味しいよね」と感じる、といった具合。この差は、嗅覚と視覚のシグナルルートの違いから生じる。嗅覚のシグナルは、速やかに扁桃体に伝わる。扁桃体は「情動の中枢」と呼ばれる部位で、嗅覚シグナルはここに短距離でつながっているため、心(感情)を動かす作用が強い。一方、視覚シグナルのメインルートは、後頭部や頭頂部を巡って前頭連合野に至る。ここは「認知」=「これはりんご」「これは自動車」などと、見たものを判別する機能を担う。扁桃体に情報が届くのはそのあとになる。

「強烈に不快なにおいを感じたとき、体は、何のにおいなのかわかるより前から、とっさに身をよじって避けようとしたり、オエッと反応したりしますよね。こういうのが、嗅覚の特徴です」(東原教授)。自然界において不快なにおいとは、肉食の猛獣や腐敗した食べ物の「サイン」。野生の環境では、そういうものを瞬時に避けることで、生き残る確率が高くなる。嗅覚はそんなやり方で、私たちの体を守っているのである。