映画 『利休にたずねよ』の題字などを手がけ、さまざまな活動が注目される書家の木下真理子さんが、日本のパワースポットを訪れる企画の第5回。

[画像のクリックで拡大表示]
[画像のクリックで拡大表示]
南北にのびる山の辺の道を、檜原神社を背にして西へ進むと箸墓(はしはか)古墳がある。それを含む纒向(まきむく)遺跡は南北約1.5㎞、東西約2㎞にわたる。調査面積は2%にも満たず、解明されていないことは多い。

 この日は午後から空に厚い雲がかかり、遠くで雷の音が聞こえたかと思うと、突然強い雨が降り出しました。雨によってみるみる黒ずんでいく三輪山は、霧のベールに包まれ、古の時代に日本の“カミ(神)”が隠れる(鎮まる)存在であったことをそのまま表しているかのようでした。

 三輪山から程近い地に、扇状に広がる纒向遺跡はあります。古墳がいくつも点在するこの一帯において、特に有名なのが3世紀中頃から後半の築造と推定されている「箸墓古墳」。全長約280mの巨大な前方後円墳は、近くに寄れば“山”に見紛うばかりです。

[画像のクリックで拡大表示]
箸墓古墳(大市墓:おおいちのはか)。築造当時の姿は樹木に覆われていない、葺石(ふきいし)による段築構造とみられている。祭祀には墳丘最上部に「特殊器台」が置かれていたとされる。

 古墳の周辺は夏でも涼しく冷気があると、地元の人に聞きました。「“れいき”でも、冷たい方ですね」と、そんなことわりもあったように、樹木が鬱蒼と表面を覆い、池の水面に鏡像を映す姿は 、異界へのつながりを思わせ、霊気漂う場所でもありました。

 この古墳は卑弥呼の墓ではないかという説もあり、邪馬台国を九州ではなく畿内とする「邪馬台国 畿内説」も近年高まりをみせていますが、真相は闇の中。宮内庁の見解では、箸墓古墳の被葬者は第10代・崇神天皇の大伯母にあたる倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト:『日本書紀』では大物主神の妻で、蛇の姿をした大物主神を見てしまい、“箸”が陰部に刺さって亡くなった)と治定(じじょう)しています。

 そしてこの大きな前方後円墳が、崇神の時代に造られたとされていることも見逃せません。『日本書紀』の“崇神紀”に〈神祗を崇(かた)て重(あが)めたまふ〉という記述もあるように、祭祀の重要性を物語っています。

纒向遺跡が大和朝廷の跡地であった可能性

[画像のクリックで拡大表示]
「崇神天皇陵」については、宮内庁は江戸時代に景行天皇の墳墓と入れ替えられた見解を現在も踏襲。箸墓古墳から約3㎞離れた場所にある「行燈山(あんどんやま)古墳」と治定している。

 纒向遺跡は、第11代・垂仁天皇の「珠城宮(たまきのみや)」、第12代・景行天皇の「日代宮(ひしろのみや)」の地でもあり、政治的、宗教的な中枢だったのではないかと目されています。また大和朝廷は複数の有力な氏族による連合体として成立したとみられていますが、それは、畿内のみならず九州から関東までの広範囲で造られたとされる土器が出土しているからです。

 とりわけ、岡山県の吉備(きび)と同形で、祭祀で用いられたと考えられている「宮山型特殊器台」の出土により、吉備を統治していた一族が、大和の地で特別な力を持ちながら祭祀を司り、それは「物部氏」だったのではないかという踏み込んだ説もあります。

 こうした仮説に興味を抱いた私は、山の辺の道をさらに北へ進んでみることにしました。