大和朝廷のミステリーを内包する石上神宮

 謎解きのヒントを教示してもらえるのではないかと思い、訪ねたのは「石上(いそのかみ)神宮」です。大神神社から山の辺の道・南コースを北へ11㎞程歩いて辿り着く終点であり、平城京までのびるコースの起点でもあります。

 奈良時代以前から「神宮」の号が使われていたというこの石上神宮は、物部氏(天武朝の時代に“石上氏”と改めた)縁の場所。公式サイトを見ると、第10代・崇神天皇7年の御世に創祀されたとあります。

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『日本書紀』に“神宮”として記されているのは、出雲と石上と伊勢のみ。しかし、平安中期の『延喜式神名帳』でその社格は、藤原氏縁の「春日大社」が神を勧請(かんじょう)した鹿島神宮と香取神宮に代わった。

 この杜は、日常のせわしさや街の雑踏の不協和音など皆無で、研ぎ澄まされた神剣のパワーによるものなのか、散策するうちに心身が沈静していくのを感じました。

 石上神宮に祀られているのは、『日本書紀』の「国譲り」の神話で、国を平定した時に使われた神剣であり、「神武東征」で神武を窮地から救った(意識を失った一行が息を吹き返した)「韴靈(フツノミタマ)」、これに宿る“霊威”「布都御魂大神(フツノミタマノオオカミ)」。難読な神名に、中国の漢字を当てはめて文字を使用した、日本語表記のルーツも垣間見れます。

 加えて素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲国で八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に用いた十握剣(トツカノツルギ)、これに宿る“霊威”「布都斯魂大神(フツシミタマノオオカミ)」。

 さらに物部氏による伝承と考えられている『先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)』に記されている、物部氏の遠祖・饒速日命(ニギハヤヒノミコト)が持っていた「天璽瑞宝十種(アマツシルシ ミズタカラ トクサ):十種神宝(トクサノカンダカラ)」、これに宿る “霊威”「布留御魂大神(フルノミタマノオオカミ)」も祀られています。

 「フル」という語は、“魂振り”の呪術に通じているといった説もあります。

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「フツ」という語は、“刀剣の鋭い様”を表しているとも。香取神宮の祭神で『日本書紀』の「国譲り」に出てくる經津主神(フツヌシノカミ)は、石上神宮の布都御魂大神と同じ神ではないかとする学説もある。

 私はかねてより、まだ文字が無かった頃の日本の原郷を想像しながら旅をしてみたいと思っていました。書家ゆえに囚われてしまいがちな、文字に “固定化された概念”や書物によって“既成事実化された事柄”から、解放されてみたかったのです。

 例えば物部氏の氏名(うじな)である「物部」。これは“もののふ(武人)”のことを指していると考えられていて、聞けば、石上神宮では朝廷の武具を管理し、守っていたということです。ただその一方で、物部氏は鉄や銅や水銀などの原料を採取して鋳造することに長け、鏡など祭儀用の呪器も扱っていたとみられています。

 「物」という語(字)は、前回の「大物主神」の名であったり、ここに祀られている神々の“霊威”に関係するもので、現代のように“マテリアル”としての意味だけではなく、 “スピリチュアル”な領域を指すものでもあっただろうことを、私は旅の中で実感しました。

 そしてこの両面を物部氏が司っていたと考えた時、彼らの存在の大きさが浮かび上がってきました。

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長鳴鶏(ながなきとり)の一種・東天紅(とうてんこう:天然記念物)。鶏は暁に時を告げる。神意を代行して伝え、現世と接触する「神使(しんし)」としての鶏は、伊勢神宮と石上神宮が有名。

 歴史を遡れば、物部氏の階級は「連(むらじ)」を称する氏族の中でも「大連」。「臣(おみ)」の中の「大臣」とともに、大和政権の中枢で最高の官職であったとされています。

 ところが、そんな一族がやがて歴史の表舞台から消えていくのです。

 きっかけは、奈良時代が始まる平城京遷都に際して、あの藤原(中臣)鎌足の次男である藤原不比等(ふひと)によって、大役を歴任していた石上麻呂が、旧都となる藤原京に留守役として留め置かれたことからと考えられています。藤原氏にとって、物部氏は脅威であり、不都合な存在であったことは想像に難くありません。