今も残る“千里眼”を持っていた明恵上人のパワー

 パワースポットとしての高山寺を語るうえで見過ごすことができないのが、明恵(みょうえ)上人の存在です。

裏参道の坂道を上り切ったところに、石水院の入り口に当たる小さな門がある。門札は、九州国立博物館の島谷弘幸館長筆によるもの。
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 華厳宗の教学研究に熱心に取り組んだことでも知られる明恵が使っていた石水院(東経蔵を移築)には、今も “聖なる経典”の残滓(ざんし)が漂っているような気がします。併せて1228年の洪水被害に遭った後、春日明神や住吉明神を祀っていたということもあり、“神仏習合”のパワーも内包しているのではないかと思います。明恵は、春日明神も深く信仰していました。

手前は金堂。江戸寛永年間、焼失した本堂があった場所に、御室仁和寺真光院から古御堂が移築された。朱塗りの春日明神の祠が隣接し、“神仏習合”の歴史も垣間見える。
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 また千里眼を持っていたとされる明恵の周りには、数々の不思議な伝説が残されています。たとえば遠くで虫が手水鉢に落ちたり、小鳥が襲撃されたりしていることをいち早く察知し、侍者に命じて救ったというエピソードなどです。

高山寺を代表する『鳥獣人物戯画』(国宝・複製)も間近で鑑賞することが可能。人間も動物も区別なく、有情の生き物と考えた明恵の思想を知ることができる。
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 さらに自由で柔軟な精神や芸術的なセンスを持ち、知性的でありながら時折見せる稚気が愛らしかったという明恵を慕う人は多く、承久の乱(1221年)で夫を亡くした宮廷の女性たちは、遠路高山寺に明恵を頼ったと伝えられています。
 とはいえ、「一切の妥協を許さない求道者」であった明恵は、煩悩を断ち切り仏道に専念するため、24歳のときに自らの手で右耳を切り落としてしまったそうです。
 世間とは距離を置き、孤独と相対した“おひとりさま”。
 そんな明恵と心を重ね合わせることも、私たちには癒やしとなるでしょう。

南縁から向山(むかいやま)を望んでいると、ふと明恵が詠んだ和歌「雲をいでゝわれにともなふ冬の月風や身にしむ雪や冷たき」が浮かんでくる。孤独と向かい合う明恵の心境に思いを馳せて。
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 境内を散策していると、自然の息吹をそこかしこで感じ取れます。人が坐れる大きさの石があればどこでも坐禅を組み瞑想をしていたという明恵の存在も、あらゆるところで感じられます。そして、自分自身が清澄な水に映し出されているような没入感覚を通して、浄化されていることに気がつくはずです。

木下真理子
木下真理子 書家。雅号は秀翠。6歳より祖父の影響で筆を持ち、専門的な知識と高度な技術を習得するために、書道の研究では第一線として知られている大東文化大学に進学。漢字文化圏である東アジアで受け継がれてきた伝統文化としての書を探求。古典研究の専門分野は「木簡隷」。篆書、隷書、草書、行書、楷書の漢字五書体を書き分け、漢字仮名交じりも書する。近年は現代美術としての書作品の制作にも取り組んでいる。映画『利休にたずねよ』、NHK『にっぽんプレミアム』、『正倉院展』などに関わる題字を数多く担当し、海外プロジェクトやエッセイなどを通して日本の伝統文化の魅力も幅広く伝えている。 公式HP:kinoshitamariko.com/blog

Photos:nanaco Cooperate:Kosanji