ゆかりの文化人も多い、華やかな五山文化の舞台

“歌僧”、“画僧”という言葉があるように、詩歌や絵の世界を極めたいと考える人たちに適した環境を提供したのが禅寺でした。とくに五山の寺院は、幕府や朝廷の庇護を受け、経済的に恵まれていたこともあって、東福寺も日本文化の担い手となる人物を多く引き寄せました。

三門の楼上内部 。天井や柱には迦陵頻伽(かりょうびんが)や飛龍が、吉山明兆(きつさんみんちょう )と弟子によって描かれた。三門は足利義持が再建 。豊臣秀吉は耐震用の柱を取り付けた 。(画像提供:東福寺)

 東福寺の15代目の住持・虎関師錬(こかんしれん)は、五山文学(京都や鎌倉の禅僧による漢詩文)の第一人者です。
 水墨画の分野も、東福寺の存在なくしては江戸時代に至る発展はなかったかもしれません。東福寺の僧であった、日本の水墨画の初期の大家として知られる吉山明兆の絵は、若き日の雪舟にも影響を与えたと言われています。
 雪舟は東福寺とは浅からぬゆかりがあり、地元岡山の井山・宝福寺(いやま ほうふくじ:東福寺系)に入り、その後京都に上って東福寺、相国寺で修行をしています。

仏殿の天井に描かれた『蒼龍図』。精気を帯びたこの蒼龍は、堂本印象によりわずか17日間で描き上げられたと言われる。作庭で重森三玲を起用したり、東福寺には既成概念にとらわれない気風が受け継がれている。

東福寺の境内にまったく桜がない、常識破りの理由

 こうした東福寺の文化的発展を支えたキーパーソンは、室町幕府の4代将軍・足利義持(よしもち)です。室町文化の発展に寄与した将軍といえば、金閣寺を完成させた先代で父の義満や、芸術面で優れた指導力を発揮した8代将軍の甥・義政の名前ばかりが挙げられますが、義持も二人に引けを取らない、高い文化意識の持ち主でした。
 その義持が帰依した東福寺の80代住持・岐陽方秀(ぎようほうしゅう)のもとに、義持つながりで能楽の世阿弥が通っていたそうです。禅宗によって培われた審美眼は、世阿弥の芸術論を高めていきました。東福寺は今もなお、そうした文化的な刺激に満ちたパワースポットで、私自身も訪れて創作の閃きを得ました。

洗玉澗の葉先が三つに分かれた楓も、円爾が宋から持ち帰ったとされる。東福寺の紅葉は、11月下旬から12月上旬にかけてが見頃。色付き始めるのが、京都ではとくに遅いことで知られている。

 東福寺には、義持と先の画僧・明兆との興味深いエピソードが残っています。明兆の『大涅槃図(だいねはんず)』に感激した義持が、明兆を呼び寄せ「望むところがあれば、何でも申すがよい」と言ったところ、明兆はこう答えたそうです。「地位や財産は要りません。ただ願わくは境内に桜の木を植えるのを禁じてほしいのです。桜の木が多過ぎて近い将来、境内が遊興の場となっては困りますから」。明兆の思いにいたく感じ入った義持は、境内の桜の木をことごとく伐採してしまったそうです。
 そのため、東福寺には現在も桜の木がまったくありません。その代わり、紅葉や雪の季節を除けば、一面の深緑が訪れる者の心に安寧と解放をもたらしてくれます。