単身でブランドに猛アタック。

 ところがいざ決心したものの、「ブランマリクロ」に何のコネクションもない。だから、どうしても日本に紹介したいと「ブランマリクロ」社のウェブサイトの“問い合わせ”にメールしてみたんです。よくありますよね、“info@~”という(笑)。すると運よくアポが取れたので、1人でイタリアの本社に向かいました。それが3年前です。そのとき、気づいたのですが、本社の所在地が偶然にも、私が以前イタリアの商社に勤めていたときに住んでいたアパートと同じ通り沿いだったんです。何か運命のようなものを感じました。私が住んでいたのは2000年で「ブランマリクロ」がスタートしたのが2001年だったので、もちろん当時は知らなかったのですが。

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 イタリアは地域や家族の団結が非常に強く、“外国の小娘”の私がファミリービジネスに入り込むのは難しいのですが、訪問した際、「実は以前、この通りに住んでいたんです」と話したら、場の雰囲気が変わったんですね。そして共通の知人の存在など、どんどん距離が縮まっていって……ようやく、こちらのビジネスプランを聞いてもらえる空気に変わりました。そこから先はトントン拍子に話が進み、今ではアジア初の総輸入元というかたちで業務提携を結ぶまでに至りました。

 その過程のなか、2年前に市場調査も兼ねて、東京で行われたインテリアライフスタイル展に参加したのですが、結果からいうと失敗に終わりました(笑)。敗因は、展示会の来場者にバイイング関係者が少なかったこと。商品は見ていただけるのですが、ビジネスの話は進まなかったんですね。でも、この展示会では大きな収穫がありました。それが、くぼさんとの出会いです。

地元の石川県で次々とビジネスを成功、4人の母のくぼさん。

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くぼさん:私は最初、地元の石川県でアパレル関係の仕事をしていたのですが、30代前半に自分の家を輸入住宅で建てたのをきっかけに、建築業界で働くようになりました。アパレルとインテリアはジャンルも違いますし、全くの未経験だったのですが、自分の家を好みに合わせてデザインできるインテリアの世界にひかれ、ただ“好きだからやりたい”という一心で、その建築会社に猛アプローチしたのです。

 そこで輸入住宅の営業として勤め始めると、成績優秀で全国で表彰されました。そして勤続9年を迎えたころに、次のステップのことを考え始めたのです。会社のいち営業員のままだと、提案できる幅には限度があるので、もっとインテリアをトータルで提案したい──。私には26歳の娘を筆頭に4人の子どもがいて、両親や夫の支えがあって仕事を続けられたのですが、子どもたちが中高生になり少し手が離れたので、これからの人生を再度見つめ直したのも大きなポイントでした。そして、大好きなインテリアと本格的に関わっていきたいという思いが強くなり、独立を決めたのです。

 当時はインターネットがちょうど普及し始めていたころだったので、まずはネット中心のインテリアショップ「ミシェル.アン」をオープンしました。すでに日本にある商品を展開するのではなく、上海でビジネスを展開している日本人のサポートを受け、上海と日本を行き来してオリジナルの家具を製作し、直輸入販売を開始したのです。すると、照明や洗面所まわりなどトータルなコーディネートを提案するにはショールームのようなものが必要になってきたので、石川県内で物件を探し始めました。そして山奥で素敵な古民家と出合い、自然も多くいい環境だったので、ギャラリーカフェ「ラ・プティット・ポルト」をオープンしました。

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 お陰様で「ラ・プティット・ポルト」のカフェは大人気になり、さらにモデルハウスも必要と考えたので、カフェの隣の敷地に、モデルハウス兼ペンションの「エトワールエフェ」を開業しようと思いました。このペンションのインテリアをグレードアップしてくれるアイテムを探しに、東京の展示会に出向いたところ、運命的に出会ったのが「ブランマリクロ」と、積極的にベッドリネンを勧めてくれた関谷さんだったのです。ブランドの世界観があまりにも魅力的だったので、ぜひペンションに取り入れたいと盛り上がったのですが、このときはいろいろとタイミングが合わず、結局お互いの連絡先を交換しただけで別れました。そして私は、ペンションの立ち上げに注力していったのです。