前編では「記憶を遡りたいとき」をテーマに、自身の創作スタイルと照らし合わせながら読書の傾向について語ってくれた川村元気さん。根っこには「ひとつひとつ、自分の肚(はら)に落ちたことしか書かない」というモットーがある。

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いわく「記憶と花はとても似ている」。造花はあまり好きじゃないのだという。「枯れない、という性質がどうしてもよしと思えなくて。LEDの花火なんかにも同じことがいえますが、何も失わず、消えずにずっと残り続けるものにはひかれない。だから、記憶というものの移ろいやすさのほうに、むしろ魅力を感じるんだと思います」(川村)

 ――最新刊『百花』は、認知症を患った母親・百合子の視点と、その姿を複雑な気持ちで見守る一人息子・泉の視点から綴られる情景が交互に編まれていく構成になっています。二つの視点が物語の中に存在することで、母親が「患者」として一方的に描かれていない点も特徴のひとつですよね。

川村 この小説を書くにあたって、専門家に加えて100人以上の認知症患者と直接話をしてみてわかったことなんですが、認知症の方々の頭の中では時間と記憶が並列化されているように感じました。昔の記憶といまの記憶がぜんぶ横並びになっているから、例えば近所に買い物に出かけて家に帰る途中なのに、「帰る」という行動の目的地をかつて住んでいた故郷の家に設定したりする。結果、新幹線や飛行機に乗ろうと悪戦苦闘しているうちに全然知らない場所に迷い込んでしまう。これを「徘徊」という言葉で片付けてしまうことに違和感があって。彼ら、彼女たちの行動にはきちんとした理由があるんだということを描きたかったんです。

 ――のちに百合子の入居先となるグループホームの所長が言うことにも、いちいちハッとさせられます。例えば、泉自身が同じ喫茶店に7~8時間もいられるかどうかたずねられる場面。「健常者でも、同じ場所にずっといるのはつらいんです」と言う。

川村 あれは実際に施設の方に言われたことです。「いきなり知らない場所に連れてこられること自体、健常者であってもキツいし、そもそも家族が“ああ、早く帰りたい”と思ってしまうような場所にずっといなければいけない気持ちになってみてください」って。例えば、プラスチックの器を使った味気ない食事をしながら、一日中テレビをみんなで見るような空間だったら……逃げ出したくなるのも当然ですよね。
 介護の現場にいるプロの人たちって、とてもよく「人間」のことを考えているんです。認知症を異常なものとして扱うのではなく、あくまで同じ人間が見せる行動として捉えているというか。非常に学びがありました。

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最新刊『百花』(文藝春秋)。カバー写真は鈴木理策。「これ、装丁用に撮影してもらったわけじゃないんです。“いつかの自分と同じ景色を見ていた人が必ずどこかにいるはずだ”と信じて探し続けていたら、この写真に出合ったんです。そんなふうに、誰かの表現の中に自分の記憶と同じものを見出すことで物語が倍加していくような、そんな営みのうちに自分の作品があればいいな、と」(川村)

 ――記憶を失っていく百合子と向き合う過程で、むしろ泉が自分の記憶の齟齬(そご)や欠損を思い知る場面も印象的です。覚えているはずの人が忘れていて、忘れているはずの人が覚えいていたという逆転が起きる。

川村 もともと自分の祖母が認知症を患ったことが執筆のきっかけだったんですが、当初は「おばあちゃん、かわいそう」という気持ちのほうが強かったんです。人というものが記憶で構成されているんだとしたら、記憶を失うことは人でなくなることを意味するんじゃないかって思っていたから。ところが祖母と会話を重ねていくうちに、だんだんちょっとうらやましくなってきたというか。余計なものが振り落とされた結果、逆にその人の芯みたいなものがクリアに見えてくるような感覚がありました。他方で僕のスマホには、誰だかわからない人の連絡先やら、もう二度と見返さない写真やらが大量に入っていて、何が大事だったかも覚えていない状態になっている。一体どっちがかわいそうなんだって思って(笑)。

 ――記憶を失うことは不幸とイコールではない、と。

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